第33回花園大学人権週間 前夜祭
「いのち」との向き合い方
師 茂樹
筆者が最初に映画「いのちの深呼吸」を観たのは、2018年11月、米国コロラド州デンバーで開催されていたアメリカ宗教学会においてであった。この学会は、宗教系の学会としては最大級のもので、様々な国や地域の宗教研究者、宗教家が集まる巨大イベントである。全体の参加者数から見ればごく一部ではあったが、日本では考えられないような多様性のある参加者が、この作品を観に集まってきていた。
映画の上映が終わった後、興奮冷めやらぬなか、パネルディスカッションが行われた。日本では自死者が毎年二万人を超える、というあるパネリストの報告に対して、客席にいた参加者から質問があった。「やはり、日本で自死者が多いのは、切腹など、自死をする伝統があるからでしょうか?」―この質問を聞いて筆者は苦笑いをせざるを得なかったが、終了後にアメリカで教鞭をとっている友人に聞いたところ、同じように理解しているアメリカ人学生は少なくないということだった。
日本がいくら先進国だと胸を張っても、あるいは、日本好き外国人が日本を褒めるテレビ番組がどれだけ制作されたとしても、海外の人々の日本人に対する関心は、実際のところ、この程度のものなのだろう。逆に私たちもまた「○○人は△△だ」などとよその国のことをわかった風に語るが、それも「日本人はハラキリをする」といった誤解と同じような誤解をしているだけなのではないかと思う。ともあれ、「自殺大国」などとも言われる日本の実情について情報が共有され議論がなされたことは、一定の成果であったのではないかと思っている。
「いのちの深呼吸」は、アメリカで活動するラナ・ウィルソン監督によるドキュメンタリー映画である。登場人物の中心となるのは、岐阜県にある臨済宗妙心寺派寺院の住職・根本一徹(紹徹)氏。映画では、根本氏が全国各地の自死志願者から次々と寄せられる声にSOSに耳を傾け、会いに行き、話をして、何とか自死を思いとどまらせようと悪戦苦闘する活動が描かれる。一方で、クラブで一晩中踊り明かしたり、自坊で酒宴をしたりする根本氏の俗っぽい(日本のお坊さんっぽい)姿が隠されることはない。
自分の健康や精神、そして家族などのすべてを犠牲にした、ほとんど破滅的にも見える氏の自死防止活動は、観る者の感情をゆさぶり、様々なことを考えさせる。
―こんな行き当たりばったりな活動をしても、できることには限界があるのではないか。専門機関などと協力せず、素人がたった一人でやったとしても、たいして成果はあがらないのではないか。自死志願者を自死から救うと言っても、自分の家族を不幸にしているのでは、意味がないではないか―
筆者は、根本氏に対するこういった評価を、実際に耳にしたことがある(誤解のないように付け加えておけば、根本氏は「いのちに向き合う宗教者の会」という団体の代表をしており、けっして一匹狼なわけではない)。これらの理性的な意見には首肯しうる面もあるが、一方で筆者は、根本氏の活動をそのように否定することができないし、いやそれ以上に、氏の活動に強く惹きつけられている(という言い方には語弊があるだろうが)。それがなぜなのか、現在の筆者にはうまく説明することができないのであるが。
自死志願者と直接向き合う根本氏の活動に目が向きがちであるが、筆者としてはもう一つの重要なメッセージが本作品にはあると思う。それは、”The Departure”(「出発」「旅立ち」)という英語の原題に込められている(率直に言えば、「いのちの深呼吸」という邦題は、映画の内容をうまく表すことができていないように思われる)。
映画の冒頭で、根本氏による「旅立ち」ワークショップの様子が映し出される。英語の原題は、ここから来ている。このワークショップの参加者は、自分が死んでこの世からいなくなっていく過程を疑似体験する。興味深いことに根本氏は、自死志願者の「旅立ち」(自死)を食い止めようと奔走する一方で、人々に「旅立ち」(死)を疑似体験する機会を提供しているのである。両者は一見矛盾したことのようであるが、ワークショップが「自殺したいと考えたら、何を残したいか、考えてほしい」という問いかけから始まることからもわかるように、両者は一続きの活動である。
誰かが死ぬときに、その人が何を失い、残された者にどれほどの喪失感があるか、実感を持って想像したことはあるだろうか。少なくとも筆者は、美しい映像でスクリーンに映し出されるワークショップのシーンを見ながら、「自分がこの世からいなくなる」ということについてまじめに考えたことがなかったことに気付かされた。このワークショップは、観客に対する、より直接的なメッセージなのではないかと思う。
日本に住んでいると、お葬式など、仏教が「死」との接点である場合が多い。しかし他の宗教と比べると、いわゆる仏教国では自殺率が高いという。そのため、「仏教が輪廻転生や極楽往生を説くことから、無宗教の次に自殺率が高い仏教は、自殺を明確には禁止しておらず、「極楽浄土」「輪廻(りんね)転生」といった思想から、自殺を誘発する懸念がある」と述べる者もいる(「医師が語る 自殺する人と、踏みとどまる人の違い―ヘルスUP―NIKKEI STYLE」https://style.nikkei.com/article/DGXMZO27917660Z00C18A3000000)。一方で、ある調査研究によれば、「死後、何らかの形で意識や存在が残る(死後存続)と考える人の方が自殺許容度は低」く、「少なくとも、死後存続を信じると自殺が助長されるという俗説は当たらない」(山本功・堀江宗正「自殺許容に関する調査報告―一般的信頼、宗教観・死生観との関係―」『死生学・応用倫理研究』21、2016年)とも言われている。つまり、極楽往生や輪廻転生は死後存続の一種であるので、こういった仏教の教義が自死を誘発しているとは言えない、ということである。
筆者は自死防止などについての専門家ではないので単なる想像に過ぎないが、自死を考えるような辛い状況になる前に、「死」とは何か、どのような出来事なのかについて考えることが、もしかすると自死防止のためには重要なのではないか、と想像してしまう。少なくとも、本作品で根本氏の「旅立ち」ワークショップ(これがどの程度、自死防止の効果をあげているのかわからないが)の様子を目の当たりにしたとき、私たちがあまりにも自分自身の死、自分以外の人々の死という出来事に向き合ってこなかったことについて反省しなければならない、と思わされた。
映画をどのように受け止めるかは、人によって異なるだろう。右に述べたことはあくまで筆者の個人的な体験であって、読者の皆さんに同じように思ってもらいたいわけではない。しかし、この作品は、多くの人々にとって何かを考えさせるものになるのではないか、という確信のようなものは持っている。
(もろ・しげき=人権研センター研究員・文学部教授)