第33回花園大学人権週間 講演2
玉置妙憂さん(看護師・看護教員・ケアマネジャー・僧侶)
◆プロフィール◆
東京都中野区生まれ。専修大学法学部卒業。夫の”自然死”という死にざまがあまりに美しかったことから開眼し出家。高野山真言宗にて修行を積み僧侶となる。現在は、現役の看護師として勤めるかたわら、院外でのスピリチュアルケア活動を続ける。「一般社団法人大慈学苑」の代表として、子どもが”親の介護と看取り”について学ぶ「養老指南塾」や、看護師、ケアマネジャー、介護士、僧侶が学ぶ「訪問スピリチュアルケア専門講座」を開催。さらに、講演会やシンポジウムなど幅広く活動している。著書に『まずは、あなたのコップを満たしましょう』(飛鳥新社)「死にゆく人の心に寄り添う~医療と宗教の間のケア~」(光文社)がある。
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介護・看護と看取り
中尾 良信
花園大学は、仏教とりわけ禅の教えを建学の精神とする大学であるとともに、学生数の割合では社会福祉を学ぶ学生が多く在籍しています。現在では、資格取得のために専門化したことによって、あまり強調されることもなくなりましたが、本学の社会福祉教育は仏教福祉という観点から始まったものです。その意味では、仏教学科の学生諸君にも福祉に関心を持っていただきたいし、一方で社会福祉学部の学生諸君にも、仏教的な考え方を学んでいただきたいと思っています。介護や看護が必ずしも人の死を看取ることになるわけではありませんが、それでも高齢者が対象になる場合が多いという意味では、ここでも仏教と重なり合う可能性が十分にあります。ただ一般的な言い方をすれば、介護も看護も対象が生きている間のことであり、仏教が葬儀や供養という形で関わるのは亡くなってからということになります。言い換えれば、医師が「御臨終です」と死亡を確認する以前には、僧侶の出番はありません。
確かに、僧侶が法衣を着たままで病院に行くと、違和感を感じる人が多いのも事実だと思います。つまり日本という国においては、歴史的に仏教が専従的に葬儀に関わってきたために、「死亡」が明確になる以前に僧侶が関わることは、ある意味で縁起が悪いという通念が定着してしまっているのです。しかしキリスト教などでは、そういう歴史がないこともあって、病床や臨終の場に神父や牧師が立ち会うことも珍しくありません。結局のところ、仏教も宗教であるという意味でいえば、いくら苦しんでいる人が目の前にいたとしても、その人が死ななければ出番がないというのも、まことに奇妙な話です。もちろん家族や親しい人、大切な人を失った悲しみに見舞われた人に、仏教的な行事の中で寄り添っていくことは、まことに重要な役目でありますし、さまざまな形でそれに取り組んでいる仏教関係者は少なくありません。さらにいえば、そうした喪失感に襲われた人に関わることが、結果的にいずれやってくる自分の死に対する姿勢にもつながれば、一定の役割が果たされているといえます。
どのような形で人生の幕が閉じられるかは千差万別であり、突然の事故や災害、あるいは事件に巻き込まれる場合も、けっして無いとはいえません。しかし、現在の日本の社会状況から見れば、大多数の人が老いや病気によって自らの死を意識するのではないでしょうか。一頃「終活」がブームとなりましたが、そこで多く話題になったのは、遺言の準備はよいとしても、葬儀費用を準備しておくとか、自分たちが入る墓を準備するとか、要するに子どもたちにいかに負担を掛けないかということでした。しかしそれ以上に大切なのは、残る時間をどのように生きるかということではないでしょうか。最近の癌治療では余命を告知することが多いようですが、ある意味でそれも残された時間を有効に過ごすことが目的だと考えられます。だとすれば、仏教を含めた宗教がそこに大きな意味を持ってこなければなりません。それは、介護や看護についてもいえることで、生活が困難になった誰かを介護すること、病気で苦しむ人を看護することも、その人が有意義に生きることを支援し、死に至る直接的な原因はどうであれ、悔いのない最後を迎えられるよう、寄り添うことでなければならないと思います。
右のようなことから考えると、当事者自身やそれを支援する人たちにとって、心の支えというべき信仰を持っているかどうかは、たいへん重要なことだといえます。もちろん信教は個人の問題だという大前提がありますので、相手に信仰を押しつけることは避けなければなりませんが、信仰がより良い関わりの支えになるという点で、意味を持つのではないでしょうか。仏教を信仰する立場を明確にしながら病気で苦しんでいる人たちに関わる、具体的にいえば僧侶の資格を持った医師や看護師も確実に増えています。仏教学科のカリキュラムに「仏教と医療・福祉」という科目がありますが、以前担当していただいていた非常勤講師も、女性の僧侶であり看護師でもある方でした。じつは、今回講演をお願いした玉置妙憂さんも、看護師であり真言宗の僧侶でもある方です。
玉置さんは、御結婚以前には仏教とも医療とも特別な関わりがありませんでしたが、御子息が重篤なアレルギー体質であったことから、御子息の専属看護師になるために資格を取られたそうです。その後は看護師として働かれる中で、末期の癌患者など残り時間が少ない方への治療を通じて、有意義な時間の過ごし方とは何かを考えられるようになったとのことです。ところが御自身の夫が大腸癌に罹り、いったん回復したものの、再発後は御本人が積極的治療を拒否されたため、結局在宅で看護され、玉置さんの言葉によれば「ほどよく身体が枯れていき、きれいに」 亡くなったそうです。その結果、出家することを思い立ち、縁あって五十一歳で高野山での修行をやり遂げられ、真言宗の僧侶の資格を取得されました。玉置さんが夫の死後、何故出家しようと思い立たれたかは、たいへん面白い理由なのですが、それは御講演の中でお話ししていただけると思いますから、期待しておきたいと思います。修行を終えた後は在宅看護の仕事に戻られましたが、やはり剃髪した僧侶の姿で患者に接することに、多少のためらいがあったそうです。しかし、僧侶としての修行を経験したことで、死にまつわる話にも応ずることができるようになり、医療という側面だけで接しなくてもよくなったと仰っています。プロの看護師としての知識と技術を持った玉置さんが、夫の看護と最後の看取りを経験し、さらに仏教修行をすることで「腹がすわり」、「自分自身も楽になった」とインタビューに答えられています。
冒頭に挙げた「介護・看護と看取り」ということは、多くの人が生きていく上で経験する可能性のあることですし、仏教を建学の精神として介護や福祉を学ぶ学生諸君にとっては、そこに自分がいかに関わるかというキーポイントでもあります。また仏教や禅を学び、将来寺院の住職となる諸君にとっても、学習と修行の結果としての教えを、どのように檀信徒や一般の人たちに還元するのかという点で、見過ごしてはいけない問題です。もちろん歴史や日本文学を学ぶ上でも、無縁の問題ではありません。当事者として多くの経験を積まれた方のお話を伺うことで、自分自身がどのように関わるかを、自分自身の問題として考えるきっかけをつかんでいただきたいと願っています。
(なかお・りょうしん=人権研センター研究員・文学部教授)