第26回花園大学人権週間 講演1
「愛に飢え、居場所を見つけるためにはただ、うたうしかなかった。」
松本恵理子
東京は国分寺、フォークソングのライブイベントに彼は出演していた。じゃかじゃかと弾くギター弦の振動が、その空間を満たしてゆく。とにかくカッコいい!
彼は、1949年東京多摩地区の飯場(注1)に生まれ育った在日朝鮮人(注2)二世だ。高校に通うころから独自の表現活動を続けている、朝鮮民謡とプンムル(注3)の演奏者であり、「在日」を生きてうたい続ける、弾き語りのシンガーである。
50歳までは、ファンウチョル(黄佑哲)の名でうたっていた。この名を聞けば、ああ!と思う方もいるかもしれない。東京方面では、なかなかの有名人なのだ。
63歳になったいまも、水道工事の仕事をしながら、ライブハウスやその他のいろんな場所で、いわゆる「社会派」的な活動(注4)に場を見出し続けている。
彼は、幼少期から疎外感を感じていた。俺は地域(注5)の一員だ!社会と生きているんだ!という自信を、どうしても持てなかった。自身のこころの中で、地域を愛せない。地域で安心出来るという気持ちを持てないままでいた。子どもだからこそ、地域の目やそういった感情に対して敏感でもあった。
彼の父親は、朝鮮で日本人のところへ奉公していた。英語も日本語もよく出来たそうで、戦争になる前に「お前はモノになるかもしれない、日本で勉強して来い!」と日本へ送り出された。
まだ、日本が戦争をする前だ。語学を武器に、赤紙から逃げまくって生活をしていた。しかし、彼は12歳で父親を癌で亡くしたため、父と子、男同士の話をしたことはあまりない。
オモニはファンさんによく「お前の父さんは面白い人生を送った人だよ。」と口にしていた。
父親を亡くしてからは、母親が一家の大黒柱だ。日雇い労働の仕事をしながら一家を支える母親の苦労を考えると、幼いころから感じていた自身の違和感や思いなどは伝えられなかった。それでもオモニが大好きで、ずっと後ろ姿を見て育つ。「俺の家、貧乏だったから、早く稼ぎたいと。むろんチャラチャラしたいとも思っていたけれど、オモニを助けたいと思っていた。あのときは親の愛情に飢えていたかなあ… でも、貧乏が俺を救ってくれたんだ…」、と懐かしそうにいっていた。
小学校4、5年にはとてもいいクラスと担任に恵まれ、それまでの思いが癒される時期が訪れる。素晴らしいチームと出会えた!と、こころから思って学校へ通っていた。
しかし、中学高校で「俺は日本人じゃない…」と「地域を愛せない…」という二つの感情が沸々と再燃する。この二つの気持ちは、マイナスな感情をこころに抱かせる。俺が生きている意味があるのだろうか?と思い詰めた時期もあった。
小学生のころからの夢は、歌手。歌手がだめなら警察官。
友達のうちの蓄音機から流れる日本の歌謡曲と、ビートルズや洋楽を聴き「こりゃ最高やな!」と思った。(ファンさんは、ビートルズの来日公演を観にいっている!「俺が好きだと知って… どうやったんだろうな… オモニが闇で手に入れてくれたんだよな、チケット…!!」)
しかし、周りの朝鮮人が汚い仕事ばかりしていることに「なぜ朝鮮人は汚い仕事ばかりなんだ?」と疑問を抱き、腹立たしい気持ちを抱く。いじめられることで、民族心が育ったのではないかとファンさんはいう。
14歳のとき、ファンさんの家へ新聞配達に来ていた人がきっかけで民族組織(注6)と出会うことに。朝鮮総連(注7)のイルクン(活動家)(注8)と、自然と関わりを持つようになった。それをきっかけに、韓国の民主化運動(注9)にも参加する。
すっぱりと辞めた理由としては、ファシスト(注10)がやめれば活動をやめようと思っていたから。ファシストさえやめれば、世界がよくなると信じていたからだ。
しかし、ファンさんは戸惑っている。ファシストが辞めても世界中全然よくなってないじゃないか、と。
ファンさんはいう。「今の社会は敵が見えない。どこを潰したらよくなるのか分からない… だって、真面目なヤツらが飯食えないじゃない?そんなの絶対おかしいよ。いまのヤツらはほんとうに生きて、戦って、ギリギリで生きてないよ。」
現代の社会に必要なのは、スーパーマンではない。彼は、しんどい仕事で繋がるネットワークが真に人を救うと考えている。「既成の事実を疑い、ほんとうによい世の中を考える勇気を持つべきだよ。それがいまの人の課題なんじゃないかって思うんだよね。」と私たちに投げかける。
ファンさんに直接会って、歌を聴き、話を聞いた。学生の私に対しても彼は必死で、謙虚で、それでいて大きい。
前夜祭と公演で、彼のエネルギーを感じてほしい。
最後に、シンガー・ファンスオンの出発点となった歌を紹介したい。
アリランのうた
詩・曲 ファンスオン
楽しいときも悲しいときも 歌ったアリラン
ハルモニのアリラン
チャンゴを叩き肩で踊って 肩で歌ったアリラン
おもいだしているんだろう あったかいふるさとを
ああアリラン ハルモニのアリラン
酒を呑み友らと語って 歌ったアリラン
アボジのアリラン
なぜか終わりは涙で歌って 心を結んだアリラン
やるせないんだろう 季節の移りが
ああアリラン アボジのアリラン
時は流れいつしかオレも 歌うよアリラン
祖国を思い
だれが祖国をなんで祖国を ふたつの祖国をつくった
ああアリラン
おいらのアリラン
(まつもと・えりこ=臨床心理学科三回生)
注釈:梁潤
注1 飯場(はんば)
鉱山や土木・建築工事の現場近くに仮設された、作業員の合宿所。納屋。(広辞苑)
実際ファンさんの生まれたのは、北多摩郡保谷(現在の西東京市)の飯場。近くには中島飛行場、河川工事などたくさんの「仕事」があったそうだ。ファンさんの飯場では、人がたくさん暮らしていたので、ブタ、ヤギ、ニワトリを飼っていたという。
注2 朝鮮・朝鮮人
「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」。現在、よく見聞きするのは、この言葉だ。しかし、ファンさんは敢えて「朝鮮人」にこだわる。なぜか?元々いまの北朝鮮と韓国に分断されてなかった朝鮮半島が、日本の植民地になったときの国名は『朝鮮』だった。1910年、日本の植民地の民となった朝鮮人は『日本人』となったのだ。日本の敗戦後も、日本国内には多くの朝鮮人たちが「日本国籍」のまま暮らしていた。1951年9月8日に締結された『サンフランシスコ講和条約』の国籍条項の通達によって、突如「外地人の日本国籍喪失」ということに。既にそのときには朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の二つの国が建国されていた。反共の資本主義陣営に属する日本は1965年日韓条約締結。国交の樹立を果たす。そのときに多くの在日同胞が「韓国籍」を選んだ。日本に渡ってきた多くの同胞は、いわゆる「韓国」領土の出身者たちであり、国交のない「朝鮮籍」よりも便利な「韓国籍」を選んだのだ。しかし、当時の韓国の軍事独裁政権に反対する者たちは、戦前からの「朝鮮籍」のままにしておいたというわけだ。当時、日本や世界中の知識人などを先頭に、時代の潮流は社会主義への憧れと希望に満ちていた。しかし、注意すべきは「朝鮮籍」の者が必ずしも北朝鮮支持者ということは、決してないというと!! そしてもうひとつ、「北朝鮮籍」という言葉を時々耳にするが、そんなものは存在しないのである!!
注3 プンムル→サムルノリに代表されるような、農民たちが豊作を祝う祭りのときなどに用いた民俗打楽器。チャンゴ、プク、ケンガリ、チンなど。
注4 いわゆる「社会派」的活動
ファンさんが社会、政治問題に関心を持つきっかけとなったのは、金大中拉致事件(1973.8.8)と詩人金芝河が発表した「五賊」の発禁と投獄、そして韓国に留学した友人の友人がスパイ容疑で逮捕されたことにあった。そして、1980年5月の「光州事件」!!この事件をきっかけに在日の中でも盛り上がりを見せた「民衆文化運動」に表現者として積極的に参加。マダン劇『統一クッ』をはじめ、アンチファンなど韓国の「民衆」歌手たちとの日本での共演も多数。その後は、新宿ゴールデン街での定期ライヴ『労働と民衆と生きるをうたう』、川越の朝鮮通信使、高麗神社でのイベント、中野の『チャランケ』という沖縄の歌って踊って… 『みんなちがってみんないい』八王子市民祭り、『蟹坂ロックフェスティバル』など、仕事と両立しながらの精力的な活動。それと、週1回のチャンゴ教室とユニット『ケグリ』の活動をかけもつ多忙な日々を送っている。
注5 「地域」
そのまま、自分が暮らし生活している「地元」という意味とともに、自分が生まれ育った「飯場」という意味でも使っている。まさにその「飯場」は、朝鮮人たちが肩を寄せ合って集団で暮らしている「囲われた場所」であり、貧しく、汚い、周りの日本人社会とは「違う」「違った」「違いを感じる」場所であったとファンさんはいう。そんな、二つの「社会」、「コミュニティー」を相対的に「地域」といっている。「地域を愛せない」「俺は日本人じゃない」との感情は、アイデンティティの問題と関連するのでは… 母国語で話すこともほとんど出来ない、けど自分は朝鮮人(外国人)。自分が、ほんとうに安心して心置きなく過ごせる場所はここではない。在日一世に近い二世だからこそ感じる葛藤と収まりのわるさなのかも…
注6 民族組織
在日韓国・朝鮮人たちの組織。現在では、北朝鮮系の朝鮮総連と韓国系の大韓民国
民団のほぼ2つが代表的な(?)ものか。
注7 朝鮮総連 在日本朝鮮人総聯合会
注8 イルクン
(朝鮮総連の)専従職員、活動家。いわゆるその世界の人たちの間での業界用語である。
注9 韓国の民主化運動
「韓流」という言葉が巷に溢れるようになって久しい。まるで東京にでもショッピングに出かけるかのように、毎日大勢の日本人がソウルへと向かう。しかし、そんな韓国が、ほんの20年ほど前までは、軍事政権下の国だったということを、どれだけの日本人が知っているだろう…
軍事独裁政権下の韓国では、戒厳令や夜間外出禁止令が布かれることも珍しくなく、労組の結成、集会、言論の自由もなかった。反政府的な活動をした者は拘束され拷問を受けたり、反政府的な著名人たちは自宅軟禁など、露骨な反民主的制裁を科せられた。
1961年、朴正煕が軍事ク-デタ-を起こし戒厳令を宣布。1963年、大統領に就任し、長期にわたる軍事独裁・権威主義体制を築く。1979年になると、労働者層に負担を強いる朴正熙の近代化路線に対し、あちこちで暴動が起き始める。そうしたさなか、同年10月26日に、大統領警護室長金載圭により、朴正熙は暗殺される(10・26クーデター)。 次期大統領に名乗りを上げたのが、三金と呼ばれる金鍾泌・金泳三・金大中であった。金鍾泌は朴正煕の下で韓国中央情報部(KCIA) 初代部長を務めた保守本流。金泳三は穏健的自由主義者、金大中は急進的自由主義者であった。朴正煕の苛酷な独裁政治が終焉したこの時期は『ソウルの春』と呼ばれ、人々の間には民主化ムードが満ちていた。
1979年12月29日に粛軍クーデターで実権を掌握した全斗煥は、1980年5月の『光州事件』(1980年5月18日から27日にかけて全羅南道・光州市で民主化を求める学生や市民が蜂起した。しかし、全斗煥の命によって韓国軍が光州市民を鎮圧。数百人の死者とたくさんの負傷者を出した。)を武力で鎮圧し、8月19日には、民主化要求を無視する形で大統領に就任した。統一主体国民会議による選出は、軍政の継続を意味していた。そうして、光州事件の首謀者として金大中に死刑判決を下す(直ちに無期懲役に減刑)と共に、大統領間接選挙制を維持し、与党に有利な選挙制度を施行した。しかし、1985年2月の12代国会議員選挙では、大統領直接選挙制への改憲を標榜した新韓民主党が躍進し、民意が大統領直接選挙にあることを証明した。しかし全斗煥は、大統領任期満了後に院政を敷こうと考えていたため、大統領直接選挙制には関心がなく、議院内閣制を主張した。が、野党が大統領直接選挙を譲らないと知るや、改憲論議打ち切りを発表し、多大なる国民の怒りをかった。当時、激しさを増していた学生運動に参加し捕らえられた大学生の拷問致死事件が発覚し、国民の怒りと民主化に対する要求は頂点に達した。
1987年6月、学生による反政府デモは日増しに高まりを見せていった。そうして、大学生のデモに高校生、サラリーマンも合流し、デモ参加者は100万人に達した。それまで韓国の民主化運動を担ったのは、伝統的に学生であったが、『6月民衆抗争』と呼ばれる軍政反対・民主化運動の担い手は学生だけではなく、皮肉にも軍政が育てた新中間層にまで拡がっていた。ソウルオリンピックが1年後に迫っていた。高度経済成長の成果を世界に誇示したい軍政としては、オリンピックが吹き飛ぶ事態だけは何とか避けたかった。
そこで、全斗煥の後継指名を受けた陸軍士官学校同期の盧泰愚が、『民主化宣言』を発表した。この民主化宣言で、国民的運動へ拡大した韓国の民主化運動は、一応の成果を得たのである。
民主化宣言後に、野党勢力を率いた金泳三と金大中の間で対立が表面化、金大中が平和民主党を創党して大統領選挙に出馬した。そのため、反軍政票が金泳三と金大中で分裂、全斗煥の後継者である盧泰愚が当選する結果となった。しかし、翌年4月の13代国会議員選挙で盧泰愚大統領与党の民主正義党は過半数を割り込む結果となった。そのため、1990年2月に金泳三の統一民主党や金鍾泌の新民主共和党と合同して民主自由党を発足、1992年の大統領選挙で金泳三を当選させる。いわば職業政治家と軍部との連立政権であった。そして1997年の大統領選挙では、金大中が金鍾泌との連合(JP連合)の末、当選を果たした。4回目の挑戦で大統領に当選した金大中候補は韓国の憲政史上野党で政権を勝ち取った最初の人物だ。 このときやっと、民主的で平和的な真の政権交代を成したのだ。
注10 ファシスト→
①韓国の軍事独裁政権のトップ。(*北朝鮮の独裁者は入らないのですか?との問
いにファンさんは、「このとき、北のことをよく知らず甘く見ていた!」と語った…)
②世界中の独裁者であり、マネーゲームで巨大な富をわがものとし、一つの国家までを滅ぼしてしまうような仕組みの中で生きているヤツら、毎日まじめに働いても食べるのも大変な、世界中の数え切れないほどの普通の人々を搾取してる一握りほどのヤツら。そして、宗教の名のもとに戦争や虐殺を繰り返している「現代の敵」すべて。
(りょうじゅん=国際禅学科六回生)