人権教育研究センター

附属機関 人権教育研究センター

人権週間

第27回花園大学人権週間 講演2

中嶌哲演さん(真言宗明通寺住職)

◆プロフィール◆
福井県小浜市生まれ
高野山大学仏教学科卒業
真言宗明通寺住職
小浜市に原発誘致計画が持ち上がった際、原発に疑問をもち反対運動に参加する。
以来、宗教者として、長年、平和運動、反原発運動に関わる。

※※※※※

「原発にもの申す 中嶌哲演さんのことなど」

島崎義孝

福井県小浜市には中嶌哲演師という僧侶がいる。同師は国宝の本堂と三重の塔がある市内屈指の名刹、真言宗明通寺の住職である。小浜市に原発誘致の話がもち上がった当初からその危険性を訴えて反原発運動を長年闘ってきた。地元では「狼少年」といわれ続けてきたそうだ。イソップ物語にあるそれではなく、自分が納得いかないことにはとことんこだわり、人が何と言おうと一人でもたたかう、という意味であろう。
 中嶌師は20年前、1993年に結成された「原発行政を問い直す宗教者の会」でも牽引役をつとめてきた。会の結成時には、高木孝一敦賀市長(当時)に面会し、①高速増殖炉「もんじゅ」の臨界・運転を認めない ②敦賀原発3・4号の増設を認めない ③老朽化している敦賀原発1号炉の廃炉について、市長提言の実施を申し入れることを確認した。そして、そのための活動も展開してきた。そのせいか以前、この名刹での研修や拝観に来ていた関電からの訪問者がプツリと切れたそうである。
海岸線をたどると、さそりの背中のようになっている若狹・小浜地方には原発が13基もある。あまり歓迎すべき表現ではないが、誰いうとなく「原発銀座」というシニカルな名前を奉られている。過疎化の進むどの地方自治体でもそうだったように、小浜市も人口減少による財政難を解決する方策として、使用済み核燃料の中間貯蔵施設の建設を誘致しようとする動きが市議会を中心に起きた。けっきょく反対派が推す候補が市長選挙で当選し、誘致話は立ち消えになった。それでも将来の布石か、国からの電源三法交付金や県からの核燃料税交付金(要するにどちらも、迷惑料)の配分は入って来る。小浜市には総計86億円、大飯町には387億円という。また、高浜町は2011年にMOXを使ったプルサーマルの運転を開始し、福井県と同町には6年間で60億円が転がり込むそうだ。
福島第一原発の事故以降、これまで原発を誘致してきた地方の方々で不安と懸念がない交ぜになってきた。福井県敦賀市の原発は高速増殖炉の名前を「もんじゅ」、新型転換炉を「ふげん」というが、いうまでもなく「もんじゅ」は智慧の「文殊」、「ふげん」は慈悲を象徴する菩薩だ。茨城県にある日本原子力機構のかかえる高速増殖炉は「常陽」というが、これは日立地方の古名から来ているらしい。しかし、この名前はじつは永平寺の開山「常陽大師」、つまり道元希元の諱でもある。偶然の一致か、両方を懸けたのかは分からないが、「もんじゅ」「ふげん」という名前を考えるとあながち偶然ともいえないかしれない。当初、「常陽」と名付けられる前は、仏教界の重鎮から「ほうぞう」という名前が提示されていたと仄聞している。「法蔵」菩薩から来ているのだろうが、これは無量寿仏(阿弥陀如来)になる菩薩であり、要するに原発永遠なれ、と仏教界のあるところで建設を強く押す声があったことは確かであろう。「福島第一原発の事故をふまえて、事故が起きれば子孫にまで影響が及ぶ原発は仏教の教えに相反する。これまでの認識不足を反省している」との弁明が永平寺側からあった。あとさきのことを考えず、その時どきの時流に乗る。そして、何か事件があってからはまったく別の対応をする。恬として動ずることがない。「変節」などという大そうなことではなく、変わることに痛痒もないのだ。こういう体質はわが国の仏教界に固有のものなのだろうか、あるいはわが国の社会そのものの気質とでもいうべきだろうか。
 敦賀半島でM7~9クラスの大地震が、70~80%の確立で起きる可能性あると指摘する地震学者もいるという。手遅れになる前に、地元でも最も危険とささやかれている原発を廃炉にするべきだろう。まず、老朽化原発を止めることだ。これは他の原発についても当てはまる。あの事故をうけて、今後は日本中のどこにも原発が造られることはおそらくない。地元の同意が必要という取り決めがされたからである。電気がふんだんに使えるのはありがたいが、原発は困るというわがままは許されなくなる。
「原発事故はいったん起こればすべて終わり」(昨年の人権週間の講師の一人として講演した阿部泰弘氏の言葉)という思いは、福島第一発電所の爆発事故の被害に遭った人たちの間に強い。生まれ育った馴染みの土地に住み続けること自体が不可能になり、仕事を追われ、失い、あるいは風評被害で農作物や製品がほとんど売れなくなる。家族が四方八方、方々に避難している。避難に要した諸経費、避難生活を強いられたことで生じた二重生活の費用、損傷された住宅の修理・・・。いちばん見えないのは「こころの病」だろう。いつまで続くか、いつ帰れるか、元の家や地域の将来は、分かれたまま別のところで暮らす友人・知人の現在、子どもに将来あるいは放射能障害が出てくるのでは、という不安、代々の墳墓はどうするか・・・。不安は尽きることがない。自分が住みなれた地域に足を踏み入れることもできない。そこは道路に亀裂が縦横にはしり、その裂け目から草が鬱蒼としげる。左右の家屋は手入れもされないまま薄汚れ、店舗の看板はずり落ち、ガラスが破られなどしてまさに廃屋だ。しかも人っ子ひとりいない。その発言が理由で辞任した当時の経済産業大臣が、実態を見て「ゴーストタウンだ」と言ったのは素直な感想だとおもう。
おりしも関西に原発避難している人たちが、国や東電を提訴することになった。その訴えの内容は上に記したこととほぼ重なる。当たり前の生活を取り戻したい、返らない部分を何とかしたい、このまま拱手して待つのはいたたまれない、という切実な想いからである。
 仏教者として、といった身構えた注釈やこだわりなしに、一人の人間として、親として、社会人として、現在ある原発をどうするか、将来どのように扱うか。素の自分の考えを一人ひとりが表出すべきときだと強くおもう。
中嶌さんは日々の生活体験と思索のなかから、忌憚のないお話してくださるはずだ。

(しまざき・ぎこう=人権研センター委嘱研究員・非常勤講師)