第32回花園大学人権週間 講演3
松原洋子さん(立命館大学大学院先端総合学術研究科・教授)
◆プロフィール◆
1958年東京生まれ。お茶ノ水女子大学助手、三菱化学生命科学研究所特別研究員を経て、2002年から立命館大学教授。専門は科学史・生命倫理学・科学技術社会論。日本弁護士連合会法務研究財団の「ハンセン病問題に関する検証会議」検討会委員も務めた。読書に障害のある人が電子書籍等を利用することで図書館を利用しやすくする研究にも取り組んでいる。
※※※※※
命の選別
中尾 良信
二〇一八年一月、宮城県在住の六〇代の女性が、一五歳のときに知的障害を理由に強制不妊手術を受けさせられたことは、個人の尊厳や自己決定権を保障する憲法に違反するものであるとして、国に謝罪と補償を求めて提訴したことがきっかけとなり、旧優生保護法(一九四八~九六年)にもとづいて、同意のないまま優生手術(強制不妊手術)を受けた人が全国で一六、四七五人に上ることが、さかんにメディアで報じられました。知的障害者や精神障害者らへの強制不妊手術を認めた宮城県では、手術を受けた記録が残る男女八五九人のうち(六三~八一年度)、未成年者が半数超の五二%を占めていたこと、最年少は女児が九歳、男児が一〇歳で、九歳の女児は二人、いずれも不妊手術の理由を「遺伝性精神薄弱」とされていたと、毎日新聞も報じています。
旧優生保護法は、「不良な子孫の出生防止」を目的とし、医師が必要と判断すれば都道府県の審査会での決定を経て、「優生手術」として不妊手術を実施できるという内容であり、旧厚生省は「本人の意見に反しても行うことができる」として、同意がなくても手術は強制可能と通知していました。この法律が定められた背景には、敗戦によって大勢の引揚者、復員者を迎えるとともに、第一次ベビーブームによる人口増加が問題となり、その抑制が求められたことがあります。その一方で、食糧難や住宅難などを背景に、違法かつ不衛生で危険な堕胎が頻繁に行われ、女性の健康被害が生じていたことも問題となっていました。また望まない妊娠に対する中絶の合法化という側面もあったようです。
もともとダーウィンの進化論にもとづくともされる優生思想は、二〇世紀には世界的に支持されており、今日では人権や福祉の先進国とされる国々でも、冒頭に述べたような不妊手術が一般的に行われていました。そして、もっとも急進的な優生思想の信奉者であったのがヒトラーであり、ナチスドイツによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)こそ、優生学を背景とした政策だったのです。ナチスドイツは、精神的または肉体的に「不適格」と判断された数十万の人々に対して強制断種を行う一方、長身・金髪碧眼の結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させるなど、純粋ゲルマン民族を維持するための、強制断種と強制結婚という人体実験を実施していたことが知られています。
すでに二一世紀に入った今、ナチスドイツの政策というといかにも非人道的であるという印象を禁じ得ませんが、では戦後日本で制定された旧優生保護法は、ナチスドイツの政策とは何が違うのでしょうか。もちろん人権を尊重するという考え方自体が、時代や社会状況によって変わることもあり得ますが、少なくとも現代の国際社会において共有されていると思われる、性差や人種による差別を否定し、いわゆる身体的・精神的障害の有無を越え、環境を含めたあらゆる生命の共生を目指すという人権思想から見れば、どのような理由であれ、本人の同意を得ない「命の選別」が人権侵害であることは、議論の余地がないのではないでしょうか。念のために繰り返しておきますが、この強制不妊手術、つまり不良な子どもを産ませないという非人道的な手術は、女性だけではなく男性にも実施されたということを忘れてはなりません。
旧優生保護法は、戦後の社会状況の変化を背景としながら、一九四九年(昭和二四年)の法改正によって経済的な理由による中絶が可能となり、一九五二年(昭和二七年)には中絶についての手続きが簡略化されるなど、小規模の改訂が行われてきましたが、障害者の家族の要請や、障害者が関わる性犯罪などの問題、あるいはハンセン病患者の問題もあって、強制不妊手術は実に一九九二年まで行われてきました。さまざまな議論を経た結果、優生学的思想に基づいて規定されていた強制断種等、人権上の問題のある条文が削除され、「母体保護法」に改正されたのは一九九六年(平成七年)のことでした。「優生手術」の文言も「不妊手術」に改められました。では、これで「命の選別」という人権侵害が開所されたかというと、たとえば羊水検査などさまざまな方法による出生前診断で、胎児に先天的障害があるかどうか、判定可能になりました。もちろん当事者である夫婦が、出産を選択するか否かは優れて個人的な問題です。したがって、結果的に中絶を選択したからと入って、けっして非難されるべきではありません。考えなければならないのは、母体保護法に改正されたからといって、私たちの中から「優性」という、人間を価値判断する考え方が無くなってはいないということです。
今回講演をお願いするのは、立命館大学先端総合学術研究科教授の松原洋子さんです。松原さんの御専門は、科学史・生命倫理学・科学技術社会論などで、日本弁護士連合会法務研究財団のハンセン病問題に関する検証会議検討会委員も務めておられました。共著として「優生学と人間社会」(講談社)などを執筆されるほか、人文紙上などにおいても優生思想について発言されています。
学生諸君の大半は、これから結婚し出産を経験する可能性がありますし、職場や生活の場において、さまざまな障害を抱えた人と関わる可能性もあります。また自分自身が障害者であったり、今後障害者になる可能性もあります。そうした中でよりよい人間関係を築くということを、いろいろな角度から考えることが重要です。そのきっかけの一つとして、旧優生保護法と強制不妊手術の問題にたいする理解を、今回の講演から深めたいものです。
(なかお・りょうしん=人権研センター研究員・文学部教授)