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人権週間

第33回花園大学人権週間 講演1

佐々木閑さん(花園大学文学部仏教学科教授)

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◆プロフィール◆
1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学後,米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て現職。文学博士。専門はインド仏教学,仏教哲学,仏教僧団史。日本印度学仏教学会賞,鈴木学術財団特別賞受賞。著書多数、論文は約90本。

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ネットカルマ―現代社会の新たな苦悩―に寄せて

吉永  純

スマホがなければ…
 通勤の電車に乗っていると、座席に座っている乗客の10人中9人はスマホを操作している。ゲームしたり、漫画を見たり、音楽を聴いたり、ラインに文章を入力したり…まさにスマホは私たちの日常生活のうえでは必須の多機能アイテムとなっている。
 私は、毎月一度は、九州で一人暮らしをしている母親の様子を見に帰省する。先日、入院していた母が退院して郊外のある老人ホームに入所したので、面会のために新幹線で帰省した。車中でスマホをチェックしようとしたのだが、スマホがない! どうも家に忘れたようだ。しかし、妻に連絡しようにもどうやって連絡するか? 幸い、座席前の新幹線の案内図をみたら、公衆電話の表示があった。公衆電話まで行って電話しようとしたが、硬貨は使えずテレフォンカード専用だった。財布を見たら使いさしの、もう何年も使っていないテレフォンカードが残っていた! やっと家に電話ができ、妻に私のスマホが机の上に残されていたことを確認してもらい、ホッとした。
 しかし、それから実家に帰ったものの、母親が入所した施設は行ったことがなく、スマホのGPS機能(全地球測位システム。自分が地球上のどこに現在いるかがわかる)を頼りに行くつもりだったので、実家にあった古い地図を頼りに施設に向かうことになった。しかし道がわからなくなった場合に、スマホがないので施設に電話で確認できない。迷ったらどうしようと不安に駆られた。幸い、迷いはしたものの施設には行くことができ何とかなった。
 さらに、実家からの帰途は、新幹線の駅まではいつもタクシーを呼んで行くのだが、スマホがないので公衆電話で依頼するしかない。しかし町のどこに公衆電話があるのかがわからない。コンビニで公衆電話の所在地を聞いたがコンビニの店員さんもすぐにはわからない。しばらくしてやっと小学校の側にあることがわかり、タクシーを依頼することができた。
 このように、私たちの生活にとってスマホがないといかに不便かを身を以て知ることになった。

「先生、浮気をしても、スマホのGPSが記録してますからバレますよ」
 方向音痴の私は、知らないところに行くときは、スマホのGPS機能を頼りにしている。海外にいても、自分の現在位置が即座にわかる。使いだすとこれなしには目的地に行けなくなってしまう。あるとき、GPSについて知り合いと話していたら、スマホのGPSは持主の行動地の履歴を記録しているから、「浮気をしてもバレますよ」と言われた。よからぬことをやろうとしても、すべてネットはお見通しというわけだ(ただ、この限りでは、スマホのGPS機能をオフにすればいいだけだと知り合いに教えてもらったが)。
 要するに、私たちは、ネット時代に生きていて、ネットの利便性にどっぷり浸かっている。これまで述べたように、スマホやPCなしには、一日たりとも日常生活を快適に送ることができない。しかし、ネットは利便性だけを享受するだけでは済まない。いや、使い方を間違えれば、あるいは、私たちが間違わなくても、ネットは勝手に襲ってきて、私たちの生活に甚大な被害を及ぼしかねない。ネットは危険と隣り合わせの恐ろしい仕組みでもある。
 私たちの個人情報は、一日の行動履歴や、買物履歴(コンビニで何を買っているか)、読書歴(アマゾンでどんな本を購入しているか)、病歴(電子カルテ等)、PCの閲覧履歴、メールやラインの交信履歴等々がそれぞれのシステムに把握されている。こうしたデータを私という個人に名寄せすれば私という人間がどのような人間かが、プライバシーも含めてわかることになる。AIを使えば、その「私」が、これからどのような本を買うだろうか、どのような性格の友人や恋人だったらうまくいくか、どんな病気になる可能性があるかとか、将来の行動も予測可能となってくる。しかし、このような「私」は、けっして本当の「私」ではない。ネットは擬似的「私」を作り上げるに過ぎない。しかし、終いには、誰が本当の「私」なのわからなくなってしまうかもしれない。そして、その「私」が勝手に評価され(1)、場合によっては攻撃の対象となり、炎上することもあり得る。
 さらに、ネットがややこしいのは、そうした記録が消えないことだ。つまり、作られた「人物像」がネット上には残り続ける。「私たち人類は、「忘れ去られていく存在」から「忘れてもらえない存在」へと移行していく過渡期にある」のだ(2)。

ネットとどう向かい合うか ~ネットカルマ
 このようなネットの危険性とどう向き合い、つきあっていくかはネット社会に生きる私たちにとって避けることができない課題である。今回の人権週間では、本学の佐々木閑先生に、この課題と向き合うためには、ブッダの教えが有効であることをお話しいただく。
 前述のように、現代社会は、「私たちはすべてをネットに「見られながら」暮らし」ている(3)。2500年前、ブッダは「自分の行動が記録されていて、必ずその報いを受けねばならないという世界(その仕組みが「業」=カルマ)は、私たちを幸福にしてくれるのだろうか」という問題を考え、結論は「そのような世界で生きることは、苦しみ以外の何ものでもない」というものであった(4)。ブッダは、この苦しみを消し去るために、仏教という特別な生き方を見出した。したがって、「仏教という宗教は、業のパワーから逃れることを第一の目標とする宗教」ということになる(5)。そして現代のネットは、ブッダの時代の業よりももっとずっと恐ろしく悪質な働きを持っている。
 このようなネット社会と向き合い、生き抜くためにはどうしたらよいか、佐々木閑先生のお話はきっとそのための有益な向き合い方を教えてくれるだろう。

最後に『ネットカルマ』から、ネット社会に対峙するためのブッダの言葉を引用したい。

「戦場において百万人に勝ったとしても、ただ一つの自分自身に勝つことができる者こそが、最高の勝者である。 ダンマパダ一〇三」(154頁)

「心によってあらゆる方向を探し求めても、自分より愛しい者はどこにも見つからなかった。他の人たちにしても同じである。みなそれぞれに自分が愛しいのだ。だからこそ、自己を愛する人は、他者を害してはならない。サンユッタニカーヤ第Ⅲ編第一章八」(179頁)

 誰しも自分は可愛い。だから自分には甘くなり、人には厳しくなる。しかし、本当に自分がかわいいなら、他人も同じように自分がかわいいことに思い至らねばならない。自分を愛することは他人を愛することでなければならない。本当の個人主義はこのように他人を尊重し愛することにつながるものである。しかし、その境地に達するのは容易ではない。その意味では世の中で一番怖い存在は自分である。ネット社会の怖さに対峙するには、自分の怖さを常に自戒することから始まるのではないだろうか。

(よしなが・あつし=人権研センター所長・社会福祉学部教授)

(1) 就職情報サイト「リクナビ」を運営するリクルートキャリア(東京)が就職活動中の学生の内定辞退率を予測したデータを企業に販売して問題となった事件はこの一例である。
(2) 佐々木閑(2018)『ネットカルマ』81頁
(3)  同前、5頁
(4)  同前、6頁
(5)  同前、7頁