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一休フォーラム「一休と女性たち」開催報告【国際禅学研究所】

2024年11月10日(日)、東京・学士会館において、一休フォーラムが開催され、国際禅学研究所顧問の芳澤勝弘先生と同副所長の飯島孝良が登壇致しました。また、中世の遊女や盲人芸能者を研究されている立命館大学教授の辻浩和先生にも御登壇頂き、フォーラムは終始盛況となりました。

芳澤先生は、日本の禅語録に出る女性は、多くの場合、死んでのちの佛事法語の中で「法身」として語られるのだが、『狂雲集』には、生身(現に生きている身。血も感情も通っている身)の形で、特段、禅を修練したのでもない、普通の女性が出る、これは他の禅録には見られないものであると指摘され、一休の著作にあらわれる女性を具体的に列挙され、森女・御阿古・紹固といった女性たちの出自や職分、そして一休との関係について検討されました。

森女が一休の文学上のフィクションであるとされた旧来の研究に反論され、森女がかなり財力のある芸能者であること、御阿古が不動産を所持する自立した職業者だったこと、紹固が四歳の貴種にもかかわらず一休に土地を寄進したことなどが指摘されました。この森女と御阿古とは大阪住吉に所縁があり、一休と純愛があったのではないかとも述べられました。加えて、一休が若い頃から『七十一番職人歌合』に描かれる扇売りや畳紙売りといった職業婦人と接触交流が考えられる、とも論じられました。

飯島からは、一休にまつわる女性としてしばしば注目される森女と地獄太夫について詳細な分析を試みられ、盲人芸能者たる森女の特徴を明らかにし、後代のフィクションというべき遊女の地獄太夫がどのような背景から造形されたのかが検討されました。

森女については、その実在性がいくつかの史料から確かめ得ることが指摘され、森女のような盲女と遊女には描かれる姿や職業上の特徴に相違点があることが確かめられました。とくに、「瞽女琵琶(法師)」といった盲人芸能者が当時はいわゆる「非人」階級とみなされるなか、一休の『自戒集』でも盲人芸能者を「五体不具」たる「非人」とみていたことがうかがわれることから、一休がそうした階級に属する森女とこそ仲睦まじく連れ添ったといえると論じられました。また、当時の大徳寺には、女性のみならず、商人、田楽、座頭、喝食といった存在も入室参禅していたと思われることから、室町期の臨済禅がどのような「民」と交流したのかが分析されました。
そして、地獄太夫は実在せず(「一休ばなし」におけるフィクション)、堺で出逢ったというものの、一休がそもそも堺とさほど関係がなく(むしろ拠点は大阪住吉)、逸話で伝わるその姿は近世的なものであることが確認されました。そのうえで、徳川期の逸話で一休と地獄太夫がしばしば言及される要因は何なのかが推定され、一休の破天荒な性愛が広く注目された点や、中世以来人びとの耳目を引いた「僧侶の袖を引く遊女」という俗伝と結び付けられた可能性、さらには遊女の往生に言及する法然と一休自身が法然を高く評価していたこととが関連付けられた可能性などが想定されました。

さらに、辻先生からは、室町時代の遊女や盲人芸能者がどのような存在であったのか、歴史学的な視座から整理が行われ、当時の状況を語り伝える一休の『狂雲集』に史料としての価値が高いことが指摘されました。

まず、室町期が遊女屋が急激に増加した時代であって、店の前で客の袖を引く遊女を三途の川の奪衣婆に見立てる一休の表現はそうした時代の様子を踏まえたものと分析されました。また、一休が遊女の形容に「翠黛」「丹臉」「金襴」を挙げるのは、こうした化粧や装飾が室町期当時の遊女を特徴づけるものとみなされたのではないか、と述べられました。さらに、一休が「盲女の艶歌」としているものは、禅林文芸とも関係したとされる『閑吟集』などにみられるような、室町期に男女の恋情を謡った宴席歌謡などではないか、とも推察されました。そうしたものは盲人芸能者がよく歌うものでもあり、森女が歌ったものとも考え得ると言及されました。
一休の表現は難解であるものの、遊女をはじめとした女性たちを具体的に取りあげたことばが多く、当時の風俗を知る上でも参考になるほど史料的価値は高い、とされました。

フォーラム後半には登壇者同士の交流・対話を行い、遊女たちの住まう「婬坊」の在り方と一休の出入りの可能性、「傾城」と称される女性たちの実態、そして室町期の女性たちが禅とどのような接点を持ち得たのか、さまざまに意見交換がなされました。

今回も、首都圏だけではなく、全国から御参加頂くことが出来ました。また、これまで幾度も御参加頂く方だけではなく、新たにフォーラムに御参加頂く方も多かったように感じられました。御参加の皆さまには、改めて深謝申し上げます。